Isono Shrine Homepage

大正九年暮、近藤平は福岡市の「博多祇園山笠」で有名な櫛田神社のすぐ西側の上新川端(現在の上川端町)に在った。現在までの調査では福岡に行くことになった経緯は判明していない。

福岡県みやま市瀬高町にある「九州別院 善光寺」は、大正十年十二月建立で、九州における唯一現存確認している堂宮彫刻である。向拝蛙股の、波に龍(縦60㎝、横幅3m35㎝、板厚30㎝)、岩座に獅子の木鼻(縦60㎝、横90㎝、板厚50㎝)など、いずれも欅の一材もので、その彫刻は現存する泰山堂宮彫刻の中でもずば抜けて大きい。中でもすばらしいのは、本堂に向かって右の向拝柱の裏側の彫刻である。下から90㎝くらいの所に高さ20㎝ほどの宝塔とその下から湧き上がり軒下まで連なる雲群を刻んでいる。龍や獅子のように見た目の派手さはないものの、わずかに吹く風の存在を繊細なタッチの曲線で彫られた雲と荒々しく力強く彫られた雲群、その中にある小さな宝塔との調和は見事だ。まるで将来のこの寺の繁栄と我が技術の向上の願いを刻み込んだようにも思われる。また、向拝左の獅子木鼻には「出身伊豫国 博多 近藤光金刀」と刻銘されている。

筑豊の炭鉱王の一人であった「伊藤伝右衛門氏」の屋敷は福岡県飯塚市幸袋にある。
栄町近藤家には、大正十年頃伊藤家の仏間(6畳の仏壇)と三尊佛を彫刻し「伝右衛門邸三尊佛」と伝えられる古写真が残されている。
数回の調査で、伝右衛門邸は昭和三十八年閉鉱に伴い、東京本店の企業に売却されクラブハウスとして残されるのであるが、仏間彫刻は別府の骨董屋に売却、分解され搬出されてしまった。現在、伝右衛門邸は飯塚市が文化財として買い上げ整備をし一般公開されている。

古写真の中に平成十六年から捜索している「十一面千手観音像」がある。この写真は伝右衛門邸より東へ約10kmの「豊前方城 黒川写真館」が撮った写真であった。早速、現地(現田川郡福智町)に飛んでみた。残念ながら写真館は昭和四十年代に廃業し、その跡地は売却され現在駐車場となっている。近隣の住職に古写真を見せると、その背景から「これはお寺では無く、札所に納めたもの」であるらしく、調べてみると、田川地区には地図には無い札所と呼ばれる所が数百あるそうで、観音像への手がかりとして次回の調査につながった。

大正十二年、結核が再発し「西戸崎療養所」に入院するが、治療と信心(篠栗四国八十八箇所参り)のおかげで回復する。この頃より、何ヶ月も現地に行っての堂宮彫刻よりも自宅の中で出来る「佛師」としての方向性を見出したように思われる。福岡期の泰山手帳には、仕事の打ち合わせや見積りなどの他、博多仏師名(黒田藩御用仏師であった佐田家の高田又四郎。荒木久、亀井慎吾、熊本清造)も記載されている。

仏師としての技術(彫刻、漆塗、彩色、彫金など)を習得するには十分な条件の場所だったようである。何よりも大きかったのは、高村光雲の弟子であった彫刻界の重鎮「山崎朝雲」との出会いであろう。当時朝雲は福岡市で御供所町「聖福寺山門の十六羅漢像」を制作していた。その制作は粘土や石膏で雛形を作り、星取器(比例コンパス)で木材に写すやり方で、光雲が取り入れた西洋塑像の自由な表現を可能にする技法である。泰山はこの技法を用い昭和十四年「鐘馗像」を、また、今治市美保町「美保神社 神馬像(焼失)」を制作している。

大正十四年九月、福岡で5年の彫刻活動を終え、土居町に帰省してからは、大正十五年、観音寺市「皇太子神社」、新居浜市「池王神社」を、祭礼関係では大野原町「十三塚太鼓台」西条市「仲町小川だんじり」など、9台の太鼓台と10台のだんじり制作に関与している。
昭和二年五月、西條北の町に移住してからは県内外からの彫刻注文が殺到し、多忙な年月を送って行く。    

西条市神拝乙(松之巷) 髙橋 清志